小笠原の由来は1593年に島を発見した「小笠原貞頼」。「鳥も通わぬ」と言われた八丈島から、さらに700kmも離れた小島に小舟でたどり着いたというから驚きだ。1670年には阿波の国で嵐にあった船が偶然漂着。帰港して幕府に資料をつくって報告したが、あまりにも遠いので幕府は放置。「ボニン(無人)ジマ」と記されたらしい。
実は、貞頼の発見より50年前、スペイン船やオランダ船がその「名もなき島」の存在を記録している。しかし、彼らは上陸はしなかった。開拓という意味では、1826年にイギリス人が漂着し、ロビンソンクルーソー生活を始めたのが最初。その後、帰国した彼らは領有を主張したが、本国であるイギリスは重要視しなかった。
そして、1830年。自らの意思で定住しようと考える人が現れた。それは意外にもアメリカのセーボレー家を中心とする23人の欧米人たち。その中にはハワイ人やポリネシア人の女性や使用人も含まれていた。翌年にはゲレー家、ウェブ家、ゴンザレス家などもやってきた。彼らは小笠原が日本の領土であることなど知るよしもなかった。
セーボレーの移住から30年後、幕末の日本では黒船により鎖国が終わり、小笠原に欧米人たちが住んでいることを知る。あわてて領土を回収しようと、ジョン万次郎を中心とした使節団がセーボレーに会いにいく。その後、先の資料などの証拠により、世界は小笠原が日本の領土であることを認めた。が、日本も欧米人を追い出さずに友好関係を築いていた。そこで、欧米人たちは日本人に帰化することになり、セーボレー家は瀬堀家になった。それからというもの、日本からの移民も増えて混血が進んでいったそう。
大正時代には人口も現在の倍以上である4,800人を超え、小笠原は黄金期を迎えた。当時は、父島と母島以外の島にもたくさんの人が住んでいたという。しかし、昭和に入って太平洋戦争が勃発。真珠湾に最も近い小笠原は、重要な軍事拠点となる。しかし、近くにある硫黄島とともに空襲を受け、数名の軍人を除く全員が強制疎開。その数は6,886名にものぼった。
敗戦後、小笠原はアメリカ領となる。そして、祖先が欧米人である家族だけが帰島を許された。その数はわずか135人。それでも、米軍の保護もあり内地より早く復興していった。そして、1968年6月26日。東京都小笠原村として返還されることになったのでした。
(参考資料)